TOPページへ   サイトマップ  サイト内検索: 検索
中国物流事情
インド物流事情
ベトナム物流事情
ブラジル物流事情
東南アジア物流事情
メキシコ物流事情
韓国物流事情
海外現地スタッフ・ブログ
中国
アジア地域
欧米地域

日馬港湾私的料簡

前のページへ戻ります

山九マレーシア・ポートクラン支店の南です。
日本では乙仲も経験しましたが、どちらか言うと港の現場を多く経験しましたので、今回港の特に管理・運営方法についてブログを書きます。

■日本の港

まず日本の港からです。
戦前の日本の港は、港によって国営だったり県営・市町村営だったりとバラバラだったようです。これを戦後、GHQがアメリカのPORT AUTHORITY制度をまねて港湾法を作り、港の管理・運営を地方公共団体に統一したそうです。

現在、港は指定業者の使用が一般的ですが、地方自治法の上では、港湾施設は「公の施設」となり、住民の利用を拒んではならないこととなっています。これは意外と知られていません。
また、港湾施設における港湾法と国有財産法の齟齬する部分については、ほぼ港湾法優先適用と考えていいです。例えば、国が直轄事業で整備した国有港湾施設であっても、すべて港湾管理者に対し譲渡、貸付、または管理委託しなければならないことになっています。
このような経緯の港湾施設を我々は公共バースと呼んでいます。

そんな中1960年頃、世界にコンテナの波が起きます。一人のアメリカ人(Malcom. P. McLean)は、本来走ってなんぼの船の輸送時間が、船舶寿命の半分にも満たないことに気づき、貨物のユニット化を進展させました。そして、1958年3月、C2型船という世界初のフルコンテナ船を誕生させます。

このコンテナ船の誕生は世界海運市場を席巻し、日本も相当量のコンテナ埠頭整備が必要となりました。
しかし、当時港湾管理者の財政事情は厳しく、従来の公共事業では限界があり、地方自治体にはお金がなかったようです。
それは、アメリカのマトソン・ナビゲーション社のフルコンテナ船就航直前だったそうです。日本政府は1967年、外貿埠頭公団法を制定し、外貿埠頭公団を設立して、お金の問題を解決することにしました。
また、この法は、お金の問題だけでなく行政法学的な問題も解決させました。

つまり、外貿埠頭公団には、港湾法や国有財産法、地方自治法が適用されません。公共バースでは地方自治法がらみで「一般公衆の利用」「不平等取扱いの禁止」といった制約がありますが、公社埠頭では専用使用が認められたのです。コンテナ航路は大型船による定期的利用のため、専用使用するしかないのですが、この現実問題も同時に解決されました。

このような「コンテナの波」によってできあがった港を我々は公社バースと呼んでいます(現在の外貿埠頭の整備運営については「外貿埠頭公団の解散及び業務の承継に関する法律」(承継法)により規定有り)。

このように日本の近代港湾施設は公共バースと公社バースの2つがあります。公共バースは行政法学的観点から未だ検討余地は残すものの、現実的には専用使用とならざるを得ず、両者の違いは港湾施設貸付形態(年間固定貸付か否か)くらいしか今はありません。
以上が日本の戦前から現在に至るまでの港湾運営管理です。

■マレーシアの港

では、次にマレーシアはどうなっているのでしょうか。
なんとマレーシアは公共も公社もなく民間運営となっています。そして、その守備範囲も広いです。彼らは港湾施設管理だけでなく、荷役作業(ターミナルオペレーター)までやります。要は、港湾局が独立上場して元請1社制度で作業まで行っているイメージです。このため、船社や物流業者に対する港会社の力(パワー)は絶大です。

例えば、日本ではデスパッチがあれば、ドレー業者はコンテナを引っ張れます。しかし、マレーシアはそれだけではコンテナを引っ張れません。事前に車輛を港のシステムに登録し、該当する車輛でしか港に入れないのです。また、普通はターミナルが作成するようなEIR(マレーシアではConsignment Note という)もドレー業者が作っています。
 EIRとは (用語集)

よって、ここではマレーシアの港湾民営化について言及してみましょう。と言っても、全部触れるゆとりはないので、国内最大の取扱量港であるポートクラン港(現在の北港)について見ていきます。


北港は戦前、鉄道局が管理していましたが1960年頃になると、鉄道局港湾一課がスピンアウトして、PSA(Port Swettenham Authority)と呼ばれる港湾局になります。(因みに、マレーシア独立は1957年)。1972年にはPSAからPKA(Port Klang Authority)に改名し、翌年にコンテナ埠頭を整備しました。

そして、1980年頃になると、マハティール首相が規制緩和を推し進める中で港湾管理・運営も民営化が進められ、そこで働いていた公務員たちもそのまま民間企業に移りました。
1986年まず北港のコンテナ埠頭だけが民営化されKCT(Klang Container Terminal)が誕生します。KCTの民営化はシンガポール港の民営化より早かったのです。港の中でもコンテナ埠頭を真っ先に民営化したのはシンガポールへの対抗意識からです。当時、ポートクラン港はシンガポール港からのフィーダー港となっていました。EPU(Economic Planning Unit)の資料によれば、当時マレーシア発着貨物の約3分の1がシンガポール港を経由していたと記されています。港湾の民営化は政府財政負担の圧縮、民間資本の活用だけでなく、シンガポール港を意識した中での生産性の向上、競争の促進が目的でした。
その後、1992年、北港残りの港湾施設はKPM(Klang Port Management Sdn Bhd)として民営化されます。

一方、同年「21世紀のトランシップ・コンテナターミナル」をスローガンにした一大プロジェクトも始まりました。西港の建設です。北港から南西約20kmに位置し、揚程のある大型クレーン、水深のあるロングバースを備え、超大型船が寄港できる港湾建設に着手しました。
因みに、西港は1969年に開業しました。2012年ポートクラン港はコンテナ取扱量1000万TEUを超え世界ランク12位まで躍進していますが、西港が全体の69%を取扱うまでに成長しています。(尚、東京港は469万TEU/2012年で29位)

話を北港に戻します。
北港では同敷地内に2つの民営会社が共存する形になりましたが、不協和音が生じ、世界のコンテナ化の波は2社間に好ましくない競争を生んでしまいました。

当時のコンテナ作業は右肩上がりに増加し、コンテナ埠頭施設を保有するKCTは大幅な増収増益となる一方、残りの在来船埠頭を保有するKPMはコンテナの波に押され、在来船バースには閑古鳥が鳴くようになりました。
そこでなんと、KPMも在来船そっちのけで、コンテナ船を誘致し始めたのです。つまり、同じ港湾施設内で、コンテナの過当な奪い合いが起こりました。国際港湾間での競争でなく、敷地内での競争です。
競争と名のつくものであれば、すべて良いかと言えば必ずしもそうではありません。大幅な値引きによりシェアを奪い合う過当競争や圧倒的有利な立場を利用して新規参入を許さない不当競争などがそれですが、北港はこれにはまってしまいました。同じ北港敷地内でお互いに体力を消耗し始めます。

しかしここからがマレーシアの強いところです。2社を1社に統一へと向かわせました。薩摩と長州を鶴の一声で結びつけるような強いリーダーシップがあったようです。
2001年11月1日、鶴の一声でKCTとKPMを合併させ、現在のNCB (NORTHPORT CONTAIER BERHAD) が誕生し、完全な民営化という形で終結しました。なんとその鶴は2社の労働組合まで一声で合併させています。

日本ももし、港が民営化されるようなことが起これば、この辺りのマレーシアの歴史も少しは参考になるかもしれませんね。

それでは、マレーシア・ポートクランから南でした。宜しくお願い致します。(筆者:南)

前のページへ戻ります
ページTOPへ戻る

COPYRIGHT © 2010 SANKYU INC. ALL RIGHTS RESERVED.